出典: 事件はラブホで起きている
これはもう数年以上も前の記憶――。
ある日、事務所にやってきたのは、ダンディで物腰の柔らかいひとりの父親だった。僕と上司の目の前にあるソファーに腰掛けると、こう切り出した。
「うちの娘を……尾行してほしいんです」
聞けば、大学進学を機に上京し、ひとりで暮らしを始めたばかりの娘が心配でたまらないという。
「娘は素直すぎる性格でして……都会で何かに巻き込まれないか心配なんです。それに、もし娘の身に何か危険が迫った場合、可能な範囲で構いませんので助けてやってほしいんです」
探偵はボディーガードではありませんし、もう18歳にもなる年頃の娘の行動を、親があれこれ詮索するのもどうか……という言葉を僕は飲み込んだ。承知しましたと上司……? 承知したのかよ。
調査委任契約書を交わし、お父様を見送った僕に上司のMさんがニヤリと笑って言った。
「さぁ小沢くん。来週から君は大学生や」
対象者は18歳の大学1年生、名前は美希ちゃん(仮名)。長野県上田市の田舎町から東京に出てきたばかりの女の子。お父様から提供された写真は、どれもニッコリとした笑顔のものばかりで、ふっくらとしたほっぺたが印象的だった。少し大きめのメガネをかけており、服装は地味だけど、黒髪のボブカットがよく似合っていた。
***
僕は彼女が通う大学に学生として潜入した。キャンパスは大きく、外部の人間である僕でも容易に出入りが可能だった。人気教室で行われる授業を中心に、彼女のすぐ後ろの席に座って授業を受けるフリをしながら、日々の様子を観察した。まさか20代半ばになって、再び大学に通うことになるとは……。クラッチバッグを持ち、カジュアルなパーカーを羽織り、昼は学食で定食を食べ、僕は完全に〝浮いた小沢〟として溶け込んでいた(と思いたい)。
尾行しながら観察すると対象者の人となりは、よくわかる。彼女はとても素直で真面目な子だ。感情表現も豊かで、よく笑う。目線はよく甘いものに向けられ、スイーツには目がない。電車ではお年寄りに席を譲る優しい子で、所作の端々に育ちの良さが出ている。きっと箱入り娘として、大事に育てられてきたのだろう。
彼女がアパートから出て大学へ行き、授業が終わって帰宅するまで、こうも連日尾行を続けていると、じょじょに一方的な親近感を覚えてくる。彼女に対して、いつしか親心というか、妹を見守るような感覚を抱いていたように思う。
授業のない土日は、中央線で都心へお出かけ。アパレルショップで可愛らしい服を買い、美容院で薄っすらと茶色のカラーを入れたり、メガネがコンタクトレンズになったり、田舎娘だった彼女が、大学デビューで少しずつ垢抜けていく様を、僕は街路樹の影から見ていた。
***
調査開始から2週間が経ったある日のこと。学食で事件は起きた。
いつものようにクリームメンチ定食を食べていた僕のもとに、美希ちゃんがまっすぐ歩いてきた。
「あの、授業よく被ってますよね?」
終わった――そう思った。完全に油断していた。流石に連日の調査で、彼女の視界に入りすぎてしまったか……? 探偵は原則、調査対象者との直接接触は避けるものだけど、尾行がバレて話しかけられてしまうことは極々まれにある。そんなときはシラを切ってすぐに立ち去るのがセオリー。だけど、ここは大学の構内。慌てて逃げるほうむしろ不自然。僕は平静を装ってこう返した。
「あー、たしかに昔、見覚えあるかも。〝社会経済学基礎〟取ってない?」
「取ってます! あと〝企業経営〟と〝立花人類学〟も!」
「やっぱりだ! めっちゃ被ってるね(笑)」
「私、美希っていいます。1年生ですか?」
「僕は小沢、2年生だよ」
「じゃあ先輩ですね! あの……私、まだ大学にお友だちがあまりいないんです。もしよかったら、お友だちになってくれませんか? いろいろと教えてほしいです、履修とかサークルとか!」
「い、いいよ……」
「やった! よろしくお願いします!」
これは、とんでもないことになってしまった。すぐさま上司へ連絡して事態を報告する。
「ハハハ、小沢やるやん! 対象者と友だちになっちゃう探偵なんて滅多におらんよ?」「やめてください……何とかやり過ごせましたけど、マジで冷や汗ものでしたよ……交代要員、いますぐ呼べますか?」
「うーん、今うちの班の案件立て込んでるからなぁ……小沢君で続行や」
「いやいや無理ですよ! ほぼ発覚してるようなもんじゃないですか!」
「そりゃ浮気調査だったらあかんけど、小沢君のケースは素行調査やし、まぁ友だちなら探偵業法的に大丈夫やろ」
「それはそうかもしれないですけど……二面が割れているので、大学の外での尾行の難易度はめっちゃ上がりますよ……」
「小沢君ならイケるで。それよかさ、彼女の恋人になってしまえばええやん! そしたら24時間の監視が可能やw」
「ちょwww」
***
こうして僕は彼女の調査を継続することになった。大学ではときどき彼女と一緒に授業を受けたり、そのまま学食で他愛もない話をする日々。調査対象者と接触し続けるなんて、内心はドキドキしていたが、身を隠す必要がないというのも、なかなかどうして悪くない。
「先輩ってなんか不思議な雰囲気の人ですよね。妙に落ち着いてるっていうか……あと観察眼鋭いですよね、何でもお見透かされちゃう気がする!」
そりゃそうだ。依頼者である君のお父様からの事前情報共有もあるし、大学の外での行動もすべて知ってんだから。
「そんなことないよ、美希ちゃんが単純なだけだよ」
「またそうやって! ひどい!」
「ごめんごめん」
「どうせ私は単純ですよ、笑」
美希ちゃんは決して美人とはいえないまでも、いつも明るく笑顔で、すぐに懐いてくる愛嬌のある子だった。
ある日だった。大学以外の場所では姿を晒すことができなかったが、次第に僕は大学で彼女に会うのが楽しみになっていった。どこか、失われた青春を取り戻したかのような気持ちになっていた。
調査開始から3週間以上が経っていた。
彼女の素行に問題は見当たらず、むしろ毎日が穏やかで、まっすぐだった。
「小沢君、その案件そろそろ依頼者指定の4週間になるやろ。特に変な動きがなければ今日の現場が終了したら報告するで」
上司から連絡が入った。
「了解しました」
もう今日で美希ちゃんともお別れか……わかってはいたけど、やっぱり名残惜しいもんだな。
そんなふうに思いながら、調査最終日の彼女の背中を見送った。尾行の帰り道、僕の足取りは少しだけ重かった。
***
調査結果の報告の際にはお父様ではなく、お母様が探偵事務所にいらした。どこか美希ちゃんに似た、やわらかい雰囲気のお母様だった。
「ひとまず娘が無事に暮らしているようで安心しました。ちょっと変な依頼だったかもしれませんが、本当にありがとうございます」
「とんでもございません。僕としても、貴重な経験をさせていただきました」
こうして、この素行調査の案件は終了した。
2週間後、美希ちゃんからLINEがきた。
「先輩、最近大学に来ますか? 単位落としちゃいますよ(笑)」
「悪いけど、僕はもう大学には行かない」
「え⁉ なんですか⁉」
「それは言えない。ごめん」
「え? えっ?」
「短期間だったけど、ありがと」
「そんなの、嫌ですよー」
僕はLINEを閉じた。これでよかったんだ。でも数時間後、彼女からメッセージが届いた。 「わかった。お台場へ行こう」
***
忘れもしないあの日。待ち合わせは、お台場海浜公園の改札口。
「お久しぶりです! 今日はお世話になります」
「こちらこそ。ありがとね」
「へへへ、大学の先輩に会うの、なんか新鮮です」
「僕もだよ。じゃ行こうか」
「はい!」
相変わらず美希ちゃんは明るかった。東京ジョイポリスへ行った。都会の屋内遊園地に感動した彼女は、まるで少女のように「すごいすごい!」とはしゃいでいた。約束どおり僕が大学に行かなくなった理由を聞いてくる素振りもなく、いろいろな話をしながらアトラクションをめぐった。猫が好きな話、自転車に乗れない話、チーズケーキの話、東京タワーへ行きたい話、免許合宿の話、高校生のときにアルバイトしていたパスタ屋の話……いまだに僕は覚えている。
お化け屋敷に入ったときだった。美希ちゃんのほうから手をぎゅつないできた。それも、恋人つなぎだ。暗闇の廊下を歩くときも、怖がりながらピタリと僕に身体をくっつけてきた。やれやれ……僕は勃起した。お化け屋敷を出たあとも、それからずっと手をつないだままだったが、僕も美希ちゃんもお互いにそれを指摘することはなかった。
ディナーには夜景の見える店内で、リコッタパンケーキを予約していた。お台場の夜景の見える店内で、リコッタパンケーキを笑顔でほお張る彼女を眺めながら、僕は自分の気持ちを伝える決心をした。なぁに……出会ったときの関係が、たまたま〝探偵〟と〝対象者〟だっただけのことさ。それなら、墓場まで持っていけばいいんだ。
「あーあ! もう今日1日でずっと先輩のことが好きになっちゃいましたよ。だからこれからも先輩を独り占めさせてくださいね!」(←本当に言われた原文そのまま)
「あのさ、みきてぃ。話があるんだけど……」
「なんですか?」
「僕と付き合ってほしい」
あの瞬間、僕は〝探偵小沢〟ではなく、ただの〝小沢〟だった。
「え……いきなり…?(笑)」
「今、言わなきゃと思ったから」
「先輩、また私をからかってます?(笑)」
「ううん、本気で言ってるんだよ」
「私……なんかでいいんですか……?」
「みきてぃがいいんだよ」
「えっと……すごく嬉しいです……」
「うん」
「でも、ちょっと考えさせてください」
「へ?」
「考えます」
「え、みきてぃ僕のこと好きなんだよね?」
「はい」
「僕を独り占めしたいんだよね?」
「はい」
「でも付き合うかどうかは……考えるの?」
「はい」
「えっ?(笑)」
こうして僕はみきてぃにフラれた。記憶はここで途絶えており、真相は闇の中だ。
ただひとつ確かなことは、あの日の彼女が、探偵としての僕をここまで連れてきてくれたということだ。答え合わせのできない謎を抱えながら、今日も僕は探偵として生きている。
「私、先輩のことが好きなんです。いつかお台場を案内してくれるって言ってたじゃないですか……だから、一度だけでいいからデートしてくれませんか? もう大学には行かないって、先輩に何か困難な事情があると思うので、理由は聞きませんから……お願いします」
彼女の僕に対する気持ちには、うすうす気づいていた。正直に白状すれば、僕だって美希ちゃんに惹かれていた。あの愛嬌のある笑顔と素直な性格に魅了されない男なんていないはずだ。それに、彼女のおっぱいは小さかった。(注:小沢は貧乳の女の子が大好きなのだ)。
探偵業法の第10条により、美希ちゃんに真実を話すわけにはいかない。でも僕が大学に行かなくなった理由を、彼女が聞いてこないのであれば、探偵業法には違反しないはずだ……僕は迷った。だけど、彼女のおっぱいは小さかった。(注:小沢は貧乳の女の子が大好きなのだ)