出典: 事件はラブホで起きている
大切なのは、「なぜ、そうなったか」じゃなくて、「その事実をどう捉えて、生きていくか」。
なぜなら、人間関係は常に訂正しつづけて完結するものでしかないから。それを思い出させてくれる寓話がある。「サソリとキツネ」の話だ。
ある日、一匹のサソリが川べりを歩きながら、向こう岸に渡りたいと考えていました。
するとキツネがいたので、サソリは自分を乗せて川を渡ってくれと頼みました。だけど、キツネは断りました。
「お前を乗せて刺されたら、溺れてしまう」と。
サソリは言いました。
「そんなことをしたら私も溺れます」
これを聞いてキツネは、承諾しました。そして背中にサソリを乗せて泳ぎ始めたのです。
でも川の真ん中でサソリは、キツネを刺しました。毒が身体にまわるなか、キツネはサソリに尋ねました。
「どうして刺した……⁉ 君も溺れてしまうのに……?」
サソリは答えました。
「本能なんです。」
これは本能という言葉の残酷さ、そして本能に抗えなかった悲劇の寓話だ。浮気にも、同じ構図が当てはまるかもしれない。一定数の人間は、浮気や不倫をすることを、本能として抑えられない。では、そもそも浮気する本能とは、いったい何なのか?
進化生物学の視点からすると、浮気という行為は、実のところかなり「合理的な設計ミス」でもある。男性は自分の遺伝子をできるだけ多く残そうとする本能を持ち、女性は子育てに耐えうる環境を求めて安定を志向する。つまり、男性は性的な多様性、女性は安心と経済力を求めて浮気をし、相手を選ぶ傾向がある。実際、僕が見てきた浮気調査の現場でも、この傾向はバリバリ当てはまるように感じる。「本能における人間は、想像以上に多い。
「なぜ不倫されたのか?」という問いの根底には、個人の意思や道徳感情だけでは語れない、人類の設計そのものの歪みが横たわっている可能性がある。だからといって僕は、浮気は本能だから仕方ないなんてことを言いたいわけじゃない。
重要なのは、仮に裏切られてしまったとしても、「その出来事を自分のなかのどう意味づけるか」で、その後の人生は変わっていくってこと。サソリに刺されてしまったことは仕方がないけど、そのまま溺れていってはいけない。もちろん溺れてしまっているそもそもの原因はパートナーにあるけど、諦めてそのまま溺れてしまうのは、あなた自身の意志だ。だから、あがこう。溺れそうになっても、助けてくれる人は案外ちゃんといる。でも、助けてもらうには、自らの意志で手を伸ばし、助けを求めなきゃいけない。誰かが引っ張り上げてくれるのを待つだけじゃなくて、自分でもう一度這い上がらなきゃ。
そのときに必要になるのは、「納得する力」だと思う。過去に起きた理不尽を、自分のなかで無理やりでも〝意味づけ〟して咀嚼して、それを糧に変えていく力。ある意味、強引で暴力的な自己回収。
これは何も不倫に限った話じゃない。人生で起きるあらゆる出来事に対して、自分のなかで納得する力」を身に付けていくことが、「生きる力」に直結する。
不倫されたことが、いまのあなたの人生の〝エンディング〟である必要もないし、そう考える必要もまったくない。
ほんの少しでも、まだ手を伸ばしてみようと思えるなら、それだけで、きっとまた違う物語が見えてくる。