出典: 事件はラブホで起きている
伊坂は突発的な動きに備えて不倫カップルのすぐ真後ろにポジションを取る。僕はイナミさんの横に立ち、不倫カップルからは姿が見えないように壁になる。イナミさんが苦笑いをしながら小声でつぶやいた。
「嫁の誕生日に……何やってんだよ……まったく……」
みぞおちのあたりで手を組んでいるイナミさんの両手が、小刻みに震えている。僕は胸が痛くなった。この仕事をしていると、よく思うことがある。それは、なぜ不倫を忘れてしまった側の人間がここまで苦労をしなければならないのか、ということだ。悪いことをしているのは旦那なのに、その裏切り行為に気づかないフリ、傷ついていないフリをしながら、探偵や弁護士を探して依頼し、第三者にもわかるような証拠を水面下で押さえるという苦行を、なぜ被害者側が強いられるのか?
「大丈夫ですよ」
僕はひと言だけ声をかけた。
電車に乗っていた時間はわずか19分。だけど、「人生でこれほど長い19分はなかった」とイナミさんはのちに言っていた。女性の最寄り駅のホームでドアが開くと不倫カップルは降車した。
奇妙な縁でつながった4人の小旅行が終わった。だけど、ここからが本番だ。
不倫カップルは駅の改札を出たところでまた立ち話を始めたが、旦那の終電がもう迫っているので間もなく別れることはわかっていた。ほかの通行人に紛れてイナミさんも改札を通過し、女性の自宅方向にあるベンチに座ってスタンバイする。
改札横でイチャつく不倫カップルと暗がりのベンチに座るイナミさんの姿が僕の視界には入っていた……なんだか、妙なテンションになってきた。このあと女性が驚き、慌てふためく様を見ている……なんだか、妙なテンションになってきた。このあと女性が驚き、慌てふためく様を目撃するまでのカウントダウンは、すでに始まっている。
そして、ついに旦那と女性が別れた。イナミさんが待つ自宅へ帰るための終電に間に合うように改札を通る対象者とそれを見送るゆで卵。電話がつながっているイナミさんに状況を伝える。
「起きた! ゆで卵が自宅方面に向かって歩き出す。その先からイナミさんがゆで卵に向かってスタスタと歩み寄り、声をかける。カッコよすぎる!」
「すみません、〇〇の妻ですが。さっきまで旦那と一緒でしたよね? 話があるので、ついてきてくれますか?」
その台詞を聞いたゆで卵は固まっていた。驚きのあまりまばたきを繰り返すだけのゆで卵の表情を、僕はビデオカメラで撮影した。シーンと静まり返った地獄のような光景に、ニヤニヤが止まらない。不謹慎だと感じつつも、ドラマのようなワンシーンに、僕は立ち会っている……ああ、やっぱり探偵は天職だ!
ゆで卵が小さく頷くとふたりは歩き出した。イナミさんの提案を受け入れてくれたようでひと安心である。探偵としての僕の役目は、ひとまずここまでだ。探偵は観測者であり続けなければならず、当事者になることは法律的にも許されない。ゆえにふたりの話し合いに参加することはできない。だけど、遠くから見守ることはできる。探偵ではなく、イナミさんの戦友として。
不倫の証拠を持って直接不倫相手と示談交渉をするときには、密室での脅迫行為にならないよう、必ず公共の場で、任意でついてきてもらう形で話し合いをする。
深夜まで営業しているファミレスに向かうふたりの後ろ姿は、夜道を並んで歩いている仲のいい友だちにしか見えない……実際には姉妹なんだがw